アダルトチルドレンは穏やかに暮らしたい

アダルトチルドレンで社会不適合気味な私が、日々の出来事や考えを記録しつつ、穏やかで幸福な人生を送るためのソリューションを模索するための備忘録。

学生時代の記憶②

今日は暑すぎず寒すぎず、ひんやりした風が心地いい素晴らしい陽気だ。
天気がいいと、気持ちが落ち着く。
こういうささやかなことが、とても幸せに感じる。


学生時代の私は、母の独裁政治に怯えながら日々を過ごしていた。
友達や親戚の家に遊びに行くと、その友達なり親戚の母親がいたりするので、自分の母親との比較ができるようになる。
そうなると、幼いころは特に不思議に思わず、そういうものだと思っていた母の厳しさというか、苛烈さが、どうやら異質なものだということに気付いてくる。
端的な例では、友達とその母親がお互いに笑顔で会話している場面。
なんてことない場面だが、我が家ではこのような光景は一切なかった。
常に眉間にしわを寄せて私を睨みつける母と、うつむきながら母の尋問に最低限の言葉で答える私がいるだけだ。
長らく母子関係とはそのようなものだと思い込んでいたものが、"よその家"での様々な光景を見るにつけ、羨ましさと、自分はこの光景の当事者にはなれない、という諦めが混ざり合った、ひどく寂しい気持ちになった。(勿論、よその家にはそれぞれ問題を抱えていることもあったかもしれないが。)


母の苛烈さがピークに達したのは、中学受験期だったと思う。
当時、小学校4年の私は、わけもわからず大手進学塾に入り、週3~4日の放課後から夜8時頃まで受験勉強に明け暮れる日々をスタートすることになった。


私の両親は、絵に描いたようなエリート志向の持ち主だった。
いい学校、いい大学に入り、いい会社に入って定年までその会社に勤めあげることを日本人の幸せと信じきっているし、それが達成できないのは世間体が悪いと思い込んでいる。(今でもそうだ。)
この"幸せのレール"に乗せるため、そして自分たちの虚栄心を満たすため、まずは私を"有名進学校"に入れようというわけだ。
親の思惑とは裏腹に、当の私は中学受験というイベントについて、大人からきちんと説明されたことがなかったこともあってその重要性をいまいち理解してなかったが、母の怒りに触れるのが嫌なので黙って従って塾に通った。


進学塾という世界は、数字が全てを支配する、残酷なまでの競争社会だ。
志望校への合格という目的のため、偏差値をひとつでも、試験の点数を一点でも上げることに執心できる子供が勝者となる。
今考えると、まさに資本主義の縮図のような世界だったわけだが、私はここではじめて本当の競争社会に足を踏み入れた。
そしてやはりというべきか、この競争社会に私は適合できなかった。


理由はいくつがあるが、決定的な理由は2つ。
①目的意識の欠如と②プロセスを楽しめなかったこと、だ。
そもそもなぜ自分に中学受験が必要なのかを分かっていなかった私は、目的もわからずただ塾に通って授業を受ける日々を繰り返していただけで、そこに上昇志向は全く存在していなかった。
加えて、プロセス、つまり勉強そのものが大嫌いだった。
私は学校含め、成績自体はそれほど悪い部類ではなかったが、学習意欲はすこぶる低かった。
理由は単純で、勉強する動機が、知的好奇心や向上心からくるものではなく、母の怒りを買いたくなかっただけだったからだ。(質が悪いことに、今でも勉強が嫌いだ。)


つまり私にとって、塾通いは、目的もなく嫌いなことを延々とやるだけの、ただの苦痛でしかなかった。塾にいる時間は苦痛でしかないので、成績が上がろうが下がろうが、喜びも何もなく、ただ早くこの時間が過ぎ去って欲しいとしか思わないようになった。
当然、目的意識もあって勉強を楽しめる子供に太刀打ちできるはずもなく、学年が上がるにつれて順位を大きく落としていった。
6年生の時には家庭教師もつくようになっていたが、家庭教師が最後の授業で私に言った言葉は、思い出す度に今でも笑えてくる。
「これまで何人も教えてきたけど、『あとどれくらいで授業が終わるの』と聞いてくる生徒さんは、君がはじめてだったし、最後まで不思議だったよ。」


母はこうした事態がよほど我慢ならなかったのか、頻繁に私に手をあげるようになった。
今でもはっきり覚えているが、「死ね」「出来損ない」と罵倒されることも日常茶飯事で、時には土下座させられることもあった。
母親が小学生の息子に土下座させて口汚く罵る、客観的にみてもかなり衝撃的な画だ。
この頃になると私の方も自我が固まったせいか、母からは完全に心が離れており、自分で稼げる歳になったらこの人間との関係は絶とう、強く思うようになっていった。


そして中学受験はといえば、結局当初の志望校からは大きくレベルを落とした近郊の私立にどうにか引っかかり、両親としては投資に見合わない大失敗に終わったが、ともかく私は苦痛にまみれた受験生活が終わったことに言い知れぬ開放感を感じていた。

学生時代の記憶①

伝統ある厳格な校風の小学校に在学していた私は、箸の上げ下ろしまで細かく指図される管理社会に馴染めずにいた。
そして、そんな私が最も恐れていたのは、母親だった。


当時の我が家は、父が仕事の都合で遠隔地に単身赴任していた関係で、母と私、母方の祖父母の4人構成だった。母親は個人事業主として働いており、主な家事全般は祖母が担っていた。
母親の性格を一言で表せば、「苛烈」である。
非常にプライドが高く、完璧主義であり、そして何より激情家だ。


我が母校では、粗相(たとえ忘れ物をした程度でも!)をすると必ず親に連絡が行くシステムが徹底されていた。
(今考えても、なぜこれほどまでに徹底されていたか謎である)
当時の私は、あまり細かいことに気を配る性格ではなかったのでよく忘れ物をしたし、活発で目上の人間にも特に物怖じせずズケズケとものを言う方だったため、教師や上級生から見ると結構ウザい子供だったと思う。
一方、伝統あるキリスト教系の私立であった母校には、教師も生徒も基本的に行儀がよく、品行方正な者が多かったので、私のような子供は悪い意味で目立ち、教師の目にも止まりやすかった。
このため、低学年時には親に結構な頻度で私の素行不良についてのアラートが出されていた。
今にして思えば、要するに学校がミスマッチだったわけだ。


プライドの高い母は、自分の子供が粗相によって面子を潰されることがよほど我慢ならなかったのか、こうした「厳重注意」が届く度、烈火のごとく私を叱り、怒鳴り散らした。
それこそ、親の仇にでも会ったかのような怒りようで、正直、常軌を逸していた。
年齢一桁の実子におよそ浴びせかけるような言葉ではない罵詈雑言で罵り、手をあげることも珍しくなかった。
文房具を忘れただの、上級生に口答えしただのといった程度のことで、である。


今でこそこうして客観視できるが、当時の私にとっては、家と学校が世界の全てであり、自分の生殺与奪を握っている母は、絶対神に等しい存在だった。
その神がお怒りなのだ。
それはもう、めちゃくちゃに。
矮小で無力な私に何ができようか。
私は、ただただ母の怒りが静まるのをじっと耐えて待つほかなかったのだ。
あまりの激しい怒りように、祖父母も何も言えなかったようだ。


幸い、学校の友達には恵まれ、窮屈な管理社会は相変わらずだったものの、学校生活自体はそれなりに楽しいと思えることも多かった。
しかし家に帰れば、母の恐怖政治が再開する。
月日が流れるにつれ、学業成績や日常生活の些細なことに対しても怒りを発露するようになり、私にとって母の機嫌を損ねないように立ち回ることが日常となっていった。


学校で注意を受けないよう努めて従順に振る舞い、家にいる時間の大半を勉強に費やした。
口を開けば怒りを買うと思い、誰と話す時も必要最低限の言葉しか発しないようにした。


幼い私は、自分自身を守るため「自分らしくあること」をやめた。

幼年期の記憶

私は、「常に傍観者視点」で「自己肯定感の低い」人間であり、このために日常生活で色々と難儀な場面に出くわすことが多い。


思えば、こうした人格形成がなされた切欠は、小学生時代の環境にあった気がする。


幼児期の私は、親戚などの周囲の話によれば、まさに明朗快活といった性格で、何にでも好奇心旺盛でひとりでどこまでも遠くに行く等行動力もあったようだ。
(そのために迷子になることも多かったみたいだが。。)
また、非常に話し好きで、大人に混じってあれやこれやとおしゃべりするのが好きだった。
この辺は、私自身も微かに記憶があり、確かにそうだったな、という感じはある。
まぁちょっと生意気な、どこにでもいるような腕白小僧といったところか。


そう、小さいころの私は明るく元気な少年だったのだ!


ところが、こんな私が一気に暗く、捻曲がった性格に変貌してしまうことになる。
ちょうど、小学校高学年になってからだったように思う。


私が通った小学校は、カトリック教系の私立で、厳格な校風だった。
戦前は軍人の子女が多く入学していたようで、その名残なのかもしれない。
とにかく、礼儀・作法・規律を非常に重んじる学校だった。
例えば、文房具類は指定された販売店で購入したもののみ使用を許可され、それ以外の物は全く認められなかったので、規格外の鉛筆を持参したら教壇で吊し上げにあった。
また、忘れ物にも非常に厳しく、何か忘れると「忘れ物帳」なるノートに明細を記入し、親のサインをもらいことが義務付けられていた。
要するに、親に黙っている、ということは許さない運用にしているわけだ。


もともと自由快活な性格だった私にとって、こうした強制収容所さながらの管理社会で過ごすことは大変なストレスとなった。
何より、自分の不手際がすべて親に開示される、という点が恐ろしくてたまらなかった。
そう、当時の私にとって、親、特に母親は恐怖の象徴だった。